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日本の偉人

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日本には知られざる偉人が沢山います。その先人達が頑張ってくれたおかげで、今の私達がいます。なるべく多くの人に知ってもらえると嬉しいです。






福澤諭吉

日本の一万円札の人

日本の武士(中津藩士のち旗本)、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。慶應義塾の創設者であり、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、伝染病研究所の創設にも尽力した。他に東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を元に明治六大教育家として列される。1984年から日本銀行券一万円紙幣表面の肖像に採用されている。

適塾入校

1855年に蘭学者・緒方洪庵の適塾に入校する。1856年に兄が死に福澤家の家督を継ぐことになる。しかし大坂遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済した後、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って再び大坂の適塾で学んだ。学費を払う余裕はなかったので、福澤が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書を翻訳するという名目で適塾の食客(住み込み学生)として学ぶこととなる。
1857年には最年少22歳で適塾の塾頭となり、後任に長与専斎を指名した。適塾ではオランダ語の原書を読み、時にその記述に従って化学実験、簡易な理科実験などをしていた。

江戸に出る

幕末の時勢の中、無役の旗本で石高わずか40石の勝安房守(号は海舟)らが登用されたことで、1858年に福澤にも中津藩から江戸出府を命じられる。築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。この蘭学塾「一小家塾」が後の学校法人慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。

1859年日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜の見物に出かける。そこでは専ら英語が用いられており、自身が学んできたオランダ語が全く通じず看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来英語の必要性を痛感した福澤は、英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める。緒方洪庵もこれからは英語やドイツ語を学ばなければならないという認識を持っていた。しかし、オランダが鎖国の唯一の例外であり、現実にはオランダ語以外の本は入手困難だった。

渡米

1859年に日米修好通商条約の批准交換のために使節団が米軍艦ポーハタン号で渡米することとなり、その護衛艦の咸臨丸の艦長となる軍艦奉行・木村摂津守の従者として、アメリカへ立つ。福沢諭吉は、蒸気船を初めて目にしてからたった7年で、咸臨丸で日本人だけの手によって太平洋を横断出来たことは世界に誇るべき名誉であると述べている。

福澤は、通訳として随行していた中浜万次郎(ジョン万次郎)とともに『ウェブスター大辞書』の抄略版を購入し、日本へ持ち帰って研究の助けとした。帰国し、アメリカで購入してきた広東語・英語対訳の単語集である『華英通語』の英語にカタカナで読みを付け、広東語の漢字の横には日本語の訳語を付記した『増訂華英通語』を出版する。この書の中で福澤は、「v」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた文字「ヴ」や「ワ」に濁点をつけた文字「?」を用いているが、以後前者の表記は日本において一般的なものとなった。また、蘭学塾から英学塾へと方針を転換した。

渡欧

1862年竹内保徳を正使とする文久遣欧使節を英艦・オーディン号で欧州各国へ派遣することとなり、福澤も翻訳方としてこれに同行することとなった。
途上、立ち寄った香港で植民地主義・帝国主義を目の当たりにし、イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受ける。ヨーロッパで病院や銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度などを見て、日本に洋学の普及が必要であることを痛感する。

1863年に帰国後、『西洋事情』などの著書を通じて啓蒙活動を開始。『西洋事情』は「理化学・器械学」が特に強調されており、病院・銀行・郵便・徴兵の制度や設備について言及してある。福沢諭吉が帰国して次の日に、英国公使館焼き討ち事件、孝明天皇の賀茂両社への攘夷祈願、長州藩が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃するなど過激な攘夷論が目立つようになった。その後、薩英戦争が起こったことにより幕府の仕事が忙しくなり、外交文書を徹夜で翻訳に当たった。

明治維新

1867年には幕府の軍艦受取委員会随員としてコロラド号という郵便船で横浜から再渡米した。紀州藩や仙台藩から資金を預かり、およそ5,000両で辞書や物理書・地図帳を買い込み、帰国後、『西洋旅案内』を書き上げた。

翌年には帯刀をやめて平民となった。1868年には蘭学塾を慶應義塾と名付け、教育活動に専念する。明治新政府からの出仕の要請があったが、これを断り、九鬼隆一や白根専一らを新政府の文部官吏として送り込む一方、自らは慶應義塾の運営と啓蒙活動に専念することとした。

廃藩置県を歓迎し、「分権論』には、これを成立させた西郷隆盛への感謝と共に、地方分権が士族の不満を救うと論じ、続く『丁丑公論』では政府が掌を返して西南戦争で西郷を追い込むのはおかしいと主張した(『丁丑公論』は内容が過激だった為、発表は福澤没後となった)。

その後、木戸孝允と出会い、「学制」を制定し、「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり。」の声があるほど、明治初期までは福澤の思い描く国家の構想が反映されるかのように見えた。

薩長派閥との対立

薩長派閥と対立をしていた福沢諭吉は、薩長藩閥では無い大隈重信に近づき、統計院(後の内閣統計局)を設立させる。統計院にはある秘密があり、設立直後から「憲法の調査立案」というおよそ統計と関係の無い機能を併せ持っていた。ここに、矢野文雄・犬養毅・尾崎行雄といった人材を投入し、大隈のブレーンとして活躍できるようにした。

大隈重信が提出していた早期国会開設論の背後に福澤の影があると、放った密偵によって察知した伊藤博文は、対処をプロシア流憲法の草案者で、明治政府一番の能吏・井上毅に一任することになる。丁度同じ時期に福沢派が北海道開拓使勧誘物払下げ問題を糾弾したことで、薩摩閥は怒り、岩倉具視・九鬼隆一らも加わって大隈一派を政府内から一掃する明治十四年の政変が起こる事となった。その際、福沢諭吉は伊藤博文と井上馨に手紙を書いたが伊藤から返事はなかった。

その時に明治十四年の政変の影響により、政府主導で設立する予定だった『時事新報』も自らの手で創刊することになったが、1882年3月1日に創刊されるや否や1,500部全てを売る結果となり、この後、『時事新報』は一定の成功を収めることとなった。

朝鮮改革運動支援

福澤は、朝鮮人改革者・金玉均との出会いをきっかけにして、朝鮮の改革運動にも加担することになる。福澤諭吉が日本の文明開化の立役者であるということは朝鮮でも有名で、1881年3月6日、金玉均は福澤と面会を果たし、朝鮮独立への協力を依頼した。

1882年に壬午事変が勃発すると、福澤は横浜正金銀行から17万円の借款を得、朝鮮に借款した。また、井上馨から朝鮮国王の委任状があれば、さらに300万円の借款を供与するという提案を貰う。この時、金を支援するべく朝鮮に人を派遣している。

『漢城旬報』という朝鮮最初の新聞を発行する。井上馨は福澤の助言に従い、朝鮮式かな混じり文を考案するべく朝鮮の文法学者と共に李朝第四代の王・世宗によって公布された『訓民正音』の研究を開始。国王・高宗の内諾を取り、新字体で紙面を構成し始める。これが今日の朝鮮文体「ハングル」である。

当時、日本の政財界の中にも、朝鮮の近代化は隣国として利益となる面も大きいと考え、積極的な支援を惜しまない人々が現れ、改革の土台が出来上がっていった。

しかし、1884年に朝鮮で甲申事変が起こるも失敗。それを受け、福澤諭吉は『時事新報』に「脱亜論」を発表し、その5か月後には社説「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」を発表する。内容は、「人民の生命も財産も独立国民の誇りも守ってやれないような国は、むしろ滅びてしまった方が人民のためだ。」という強烈なものだった。その後、金玉均は福澤邸にしばらく潜伏していたが、日本郵船の西京丸で上海へ向かう途中、暗殺されることとなった。福沢諭吉は、上海で暗殺された金の供養を真浄寺で行っている。

教育支援

政府に反発する者・自由民権運動の火付け役として伊藤博文から睨まれていた福澤の立場は益々厳しいものとなったが「慶應義塾維持法案」を作成し、自らは経営から手を引き、後任に任せることにした。この頃から平民の学生が増えた事により、運営が徐々に黒字化するようになった。

私立の総合大学が慶應義塾のみで、もっと多くの私立学校が必要だと考え、門下を大阪商業講習所や商法講習所で活躍させる一方、専修学校や東京専門学校、英吉利法律学校の設立を支援し、開校式にも出席した。しかし東京専門学校などはあからさまに大隈重信嫌いの山縣有朋等の薩長参議が潰そうとしてきた為、設立は困難を極め、開校式に大隈が出席せず、「学問の独立」という取って付けた宣言を小野梓が発表するに留まった。

1892年には、長与専斎の紹介で北里柴三郎を迎えて、伝染病研究所や土筆ヶ岡養生園を森村市左衛門と共に設立していく。丁度帝国大学の構想が持ち上がっている頃だったが、慶應義塾に大学部を設置し小泉信吉を招聘して、一貫教育の体制を確立した。

アジア近隣諸国に対して

福澤は、アジアの「改革勢力」の支援を通じて近隣諸国の「近代化」に力を注いでいる。朝鮮からの留学生も1881年6月から慶應義塾に受け入れている。

晩年

晩年は旅行や著作に多くの時間を費やし、自叙伝『福翁自伝』を記し始め、『時事新報』掲載の社説には明治政府の国家社会主義的な西洋化・近代化への批判、キリスト教を始めとした宗教批評ど多岐に及んだ。

功績

福沢諭吉の最大の功績は、『西洋事情』や『文明論之概略』などの著作を発表し、明治維新後の日本が中華思想・儒教精神から脱却して西洋文明をより積極的に受け入れる流れを作った(脱亜思想)ことである。また、中央銀行の考え方を日本に伝えた人物で、日本銀行の設立に注力している。他には、会計学の基礎となる複式簿記を日本に紹介した人物でもある。借方貸方という語は福澤の訳によるもの。近代保険制度、男女同等論など多岐にわたる。


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