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日本の偉人

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楠木正成

明治時代人気ナンバーワンだった日本人

南北朝時代の武将。大阪・千早赤阪村の山里に生まれ、金剛山一帯を本拠地とする。幼名多聞丸。鎌倉幕府に抵抗し、最後まで勤王をつらぬいたことから、明治以降「大楠公」(だいなんこう)と称されています。

鎌倉時代末期、元寇から半世紀が経ち、幕府にはもう与える恩賞の余地はく、幕府の権威も失墜し、執権の北条高時は、政治への興味をなくし遊興三昧の日々を送っていた。

1331年、みかねた後醍醐天皇は、幕府打倒を目指して京都で挙兵します。しかし、幕府軍の巨大な軍事力に恐れをなして倒幕勢力に加わる者は少なかった。この時駆けつけた少ない武将の中の一人が楠木正成でした。これに対し、幕府は数万の討伐軍を差し向けます。

赤坂城の戦い

討幕軍は笠置山陥落、吉野も陥落し、楠木正成の下赤坂城のみ残ります。
楠木正成は赤坂城でおよそ500余りの兵力で、幕府軍数万(「太平記」では20万)の討伐軍と戦います。

幕府側は初戦だけで700名の兵を失い、持久戦に持ち込みます。20日で食糧は底を尽き、後醍醐天皇が捕えられます。楠木正成は城に火を放ち自害したと見せかけて脱出します。その後、後醍醐天皇は隠岐島へ配流され、討幕側の主力の日野俊基や北畠具行、日野資朝らは斬罪されます。こうして倒幕運動は鎮圧されたかに見えました。

再挙兵

翌1332年、楠木正成は再挙兵します。河内や和泉の守護(幕府の軍事機関)を次々攻略し、摂津の四天王寺を占拠します。これに対し、幕府側は紀清両党と呼ばれる幕府最強の宇都宮公綱を差し向けます。

楠木正成軍は4倍の兵力があったと言われていますが、坂東一の弓取りと言われた宇都宮氏の武勇を警戒して持久戦に持ち込みます。宇都宮公綱も楠木正成の武略を警戒して直接対決することはなく、引き分けに終わっています。

翌1333年2月、楠木正成を打つべく8万騎(「太平記」では100万騎とされている)の大征伐軍を編成します。これに対し、楠木正成は1,000人の兵力で千早城で迎え撃ちます。
地元の土豪などの協力もあり、幕府側の兵糧を断つことに成功します。兵糧の無くなった幕府軍から数百単位で撤退する部隊が続出し、90日に渡って幕府軍の大軍を相手に戦い抜きます。

ちなみに、赤坂城、千早城の合戦の後日、楠木正成は、敵・味方の戦没者を弔うためのに、供養塔(五輪塔)を建立し、高僧を招いて法要を行ないました。この供養塔で、彼は“敵”という文字を使わなかった。代わりに「寄手(攻撃側)」という文字を使っています。そして、寄手塚の塚を、味方の塚よりひとまわり大きくしています。この供養塔は、現在も千早赤阪村営の墓地に残っています。

討幕の機運高まる

幕府軍が千早城に大軍を貼り付けにしながら落とせずにいる、との報は全国に伝わり、各地の倒幕の機運を触発することとなります。各地で討幕軍が挙兵します。中でも、赤松則村(円心)の勢いはすごく後醍醐天皇は討幕の綸旨を天下へ発することになります。

ついには幕府内部からも、足利尊氏、新田義貞などの源氏直流の大物豪族たちが公然と反旗を翻し出します。足利尊氏は、京都の幕軍を倒し、新田義貞は、鎌倉に攻め入って北条高時を討ち取ってしまった。

楠木正成が庶民の力で千早城を守り抜いたことが、最終的には140年続いた鎌倉幕府を滅亡させることになりました。

建武の新政

後醍醐天皇は朝廷政治を復活させ、建武の新政をスタートします。楠木正成は、土豪出身でありながら、河内・和泉の守護に任命されました。また、早急に財政基盤を強固にする必要があるとして、庶民に対しては鎌倉幕府よりも重い年貢や労役を課した。

武士の反発

朝廷の力を回復する為とはいえ、こうした性急な改革は諸国の武士の反発を呼び、1335年11月、足利尊氏が武家政権復活をうたって鎌倉で挙兵します。

これを楠木正成ら天皇方の武将が迎え撃ち、足利尊氏は敗退します。
しかし、武士、民衆の支持を得た足利尊氏は九州で大軍を得て北上します。

この頃楠木正成は、社会の混乱の全ては後醍醐天皇の政治にあること、力を持った武士階級を統制して社会を静めるにはもう公家政治では無理であること、そして武士を統制できる武家政治の中心となれるのは足利尊氏以外にいないことなどを考えていたようです。
楠木正成は、後醍醐天皇に新田義貞を切り捨てて尊氏と和睦するよう進言したが容認されず、次善の策として進言した、京都から朝廷を一時退避して足利軍を京都で迎え撃つ必勝の策も却下されてしまいます。

湊川の戦い

絶望的な状況下、新田義貞の麾下で京都を出て戦うよう出陣を命じられ、湊川(兵庫県神戸市)で足利軍と戦います。
民衆の支持を失った天皇側の楠木軍は700騎、足利尊氏軍は3万5千騎であったといいいます。海岸に陣をひいた新田軍は、海と陸から挟まれ、あっという間に総崩れとなります。

楠木正成の能力を高く買う足利尊氏は楠木正成を助命しようと再三降伏勧告を出します。それに従わない楠木正成に足利尊氏は総攻撃をし楠木正成は敗れます。

楠木正成の最後

楠木正成は生き残った72名の部下と民家へ入ると、死出の念仏を唱えて家屋に火を放ち全員が自刃します。正成は弟・正季と短刀を持って向かい合い、互いに相手の腹を刺した。享年42歳。

このとき楠木正成が、弟正季ら、生き残った一族郎党と誓い合った言葉としていまに伝えられているのが「七生報国」(しちしょうほうこく)です。
「七生まで人間に生れて朝敵を滅ぼしたい」という意味です。

正成の首は、一時京都六条河原に晒されたけれど、死を惜しんだ足利尊氏の特別の配慮で、彼の首は故郷の親族へ丁重に送り届けられています。

足利尊氏側の記録(『梅松論』)には、敵将・正成の死が次のように書かれています。
「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」
足利尊氏没後、室町幕府は、北朝の正当性を強調するために、足利軍と戦った楠木正成を『逆賊』として扱った。楠木正成は、死後300年近くも、朝敵の汚名を着せられたままとなった。

楠木正成の英雄化

江戸時代には水戸学の尊皇の史家によって、楠木正成は忠臣として見直されます。
水戸黄門で有名な、水戸光圀が1692年に神戸市の湊川神社に楠木正成の「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立し、一気に崇敬されるようになっていきます。

明治になり南北朝正閏論を経て南朝が正統であるとされると「大楠公」と呼ばれるようになり民衆に大人気となっていきました。楠木正成は、大東亜戦争を戦い抜いた若き日本軍の将兵に「皇国の最大の英雄」と慕われ、「七生報国」は、「忠君愛国」「滅私奉公」とともに、旧日本軍日本人の精神として受け継がれました。

桜井の別れ

桜井の別れ(さくらいのわかれ)は、西国街道の桜井の駅(櫻井の驛)で楠木正成・正行父子が訣別する逸話。
桜井の駅で別れた後、正成は湊川の戦いに赴いて戦死し、今生の別れとなった。
「駅」(驛)とは宿駅のことで、摂津国島上郡桜井村(現在の大阪府三島郡島本町桜井)に置かれた大原駅と言われている。

『太平記』によると、「桜井の別れ」のあらましは次の通り。

楠木正成は敗北が濃厚な湊川の戦場に死を覚悟して赴くことになった。その途中、桜井の駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族朗党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げた。

なお、訣別に際して桜井村の坂口八幡宮に菊水の旗と上差しの矢一交が納められ、矢納神社の通称で呼ばれた。


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