日本には知られざる偉人が沢山います。その先人達が頑張ってくれたおかげで、今の私達がいます。なるべく多くの人に知ってもらえると嬉しいです。
茶聖と呼ばれた男
戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられた。
若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われた。
信長の家臣は茶の湯に励み、ステータスとなる茶道具を欲しがった。彼らにとっての最高の栄誉は信長から茶会の許しを得ること。必然的に、茶の湯の指南役となる利休は一目置かれるようになった。
本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕えた。秀吉は、信長以上に茶の湯に熱心だった。秀吉に感化された茶の湯好きの武将は競って利休に弟子入りし、後に「利休十哲」と呼ばれる、細川三斎(ガラシアの夫)、織田有楽斎(信長の弟)、高山右近(キリシタン)、“ひょうげもの”古田織部など優れた高弟が生まれた。
1587年(65歳)、秀吉は九州を平定。実質的に天下統一を果たした祝勝と、内外への権力誇示を目的として、史上最大の茶会「北野大茶湯(おおちゃのゆ)」を北野天満宮で開催する。公家や武士だけでなく、百姓や町民も身分に関係なく参加が許されたというから、まさに国民的行事。秀吉は「茶碗1つ持ってくるだけでいい」と広く呼びかけ、利休が総合演出を担当した。豊臣秀吉との対立
秀吉は貿易の利益を独占するために堺市に対し税を重くし、堺市の独立の象徴だった豪を埋めてしまう。堺市の権益を守ろうとする利休との関係が悪化して行く。
その後、利休の弟子である山上宗二が秀吉に口の利き方が悪いと処刑されます。茶の湯に関してもド派手な「黄金の茶室」を好む秀吉に対し、利休は素朴な茶室を好む為、対立が激しくなっていきます。
そして1591年1月13日の茶会で派手好きの秀吉が黒を嫌うことを知りながら「黒は古き心なり」と平然と黒楽茶碗に茶をたて秀吉に出した。他の家臣を前に、秀吉はメンツが潰れてしまう。 9日後の22日、温厚・高潔な人柄で人望を集めていた秀吉の弟・秀長が病没する。
秀長は諸大名に対し「内々のことは利休が、公のことは秀長が承る」と公言するほど利休を重用していた。利休は最大の後ろ盾をなくした。
利休は突然秀吉から「京都を出て堺にて自宅謹慎せよ」と命令を受けます。利休が参禅している京都大徳寺の山門を2年前に私費で修復した際に、門の上に木像の利休像を置いたことが罪に問われた(正確には利休の寄付の御礼に大徳寺側が勝手に置いた)。大徳寺の山門は秀吉もくぐっており、上から見下ろすとは無礼極まりないというのだ。
秀吉は利休に赦しを請いに来させて、上下関係をハッキリ分からせようと思っていた。秀吉の意を汲んだ家臣団のトップ・前田利家は利休のもとへ使者を送り、秀吉の妻(おね)、或いは母(大政所)を通じて詫びれば今回の件は許されるだろうと助言する。だが、利休はこれを断った。利休が謝罪に来ず、そのまま堺へ行ってしまったことに秀吉の怒りが沸点に達した。
2月25日、利休像は山門から引き摺り下ろされ、京都一条戻橋のたもとで磔にされる。26日、秀吉は気が治まらず、利休を堺から京都に呼び戻す。 そして28日。京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年70。利休の首は磔にされた木像の下に晒された。
後年、利休の孫・千宗旦が家を再興する。そして宗旦の次男・宗守が『武者小路千家官休庵』を、三男・宗佐が『表千家不審庵』を、四男・宗室が『裏千家今日庵』をそれぞれ起こした。利休の茶の湯は400年後の現代まで残り、今や世界各国の千家の茶室で、多くの人がくつろぎのひと時を楽しんでいる。わび茶(草庵の茶)の完成
利休は“これ以上何も削れない”という極限まで無駄を削って緊張感を生み出し、村田珠光から100年を経て侘び茶を大成させます。利休の茶の湯の重要な点は、名物を尊ぶ既成の価値観を否定したところにある。
「露地」も利休の業績として忘れてはならない。それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を、積極的な茶の空間、もてなしの空間とした。このことにより、茶の湯は初めて、客として訪れ共に茶を喫して退出するまでの全てを「一期一会」の充実した時間とする「総合芸術」として完成されたと言える。利休は主人と客がお互いを尊敬しあい、おごらない気持ちで接しするという「和敬静寂(わけいせいじゃく)」の考えをもっていたため、織田信長や豊臣秀吉とも対等の立場を守ろうとした。茶室
日本式の茶道において、茶事の主催者(主人、亭主)が客を招き、茶を出してもてなすために造られる施設である。「茶席」「囲い」あるいは「数寄屋」と呼ぶこともある。
利休は2畳や1畳半と言った従来の4畳半に比べて狭い空間を作り出した。こうした狭小な空間は、利休の志向した「直心の交」(じきしんのまじわり)、すなわち、亭主と客とが直に心を通い合わせる空間をめざしたものであった。
体をかがめなければ入室できない躙口(にじりぐち)、丸太を用いた柱、土壁、壁の一部を塗り残して壁下地の木舞(格子状に組んだ竹)を見せた下地窓などが、草庵風の茶室の代表的な要素である。
特に躙口は、天下人となった秀吉であっても頭を下げて入らなければいけない作りである。しかも武士の魂である刀を外さねばつっかえてくぐれない。つまり、一度茶室に入れば人間の身分に上下はなく、茶室という小宇宙の中で「平等の存在」になるということだ。このように、茶の湯に関しては秀吉といえども利休に従うしかなかった。
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