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日本の偉人

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手塚治虫

マンガの神様

日本の漫画家、アニメーター、アニメーション監督。 医学博士。
戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、現代にまでにつながる日本の漫画表現の基礎を作った。

大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。

1947年、酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新寶島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こす。

1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけた。
1963年、自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。

1970年代には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などのヒット作を発表。また晩年にも『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を生み出す。デビューから1989年の死去まで第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と評された。

1988年3月に胃を壊し、一度目の手術を受ける。同年11月、中国上海でのアニメーションフェスティバル終了後に倒れ、帰国と同時に半蔵門病院に入院。医師の診断ではスキルス性胃癌であった(しかし当時の日本の医療の慣習により、直接本人にはそのことは告知されなかった)。100歳まで描き続けたいと言っていた手塚治虫は、病院のベッドでも医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていた。
同年1月25日以降、昏睡状態に陥るが意識が回復すると「鉛筆をくれ」と言っていたという。
息子である手塚眞は昏睡が覚めると鉛筆を握らせるが意識がなくなりの繰り返しだったと語る。死に際の状態でも「頼むから仕事をさせてくれ」と起き上がろうとし、妻は「もういいんです」と寝かせようとするなど最後まで仕事への執着心を無くさなかった。

手塚の死に立ち会った松谷孝征によるとこの「頼むから仕事をさせてくれ」が手塚の最後の言葉であったという。手塚が病院で描いていた遺作の一つ「ネオ・ファウスト」では主要な人物が胃癌にかかり、医者や周りは気遣って胃癌であることを伝えないが本人は胃癌であることを知っていて死亡するという内容が描かれている。

トキワ壮

手塚治虫は1953年に東京都豊島区南長崎三丁目16番6号にあったトキワ壮に入居した。他に寺田ヒロオ、藤子不二雄A、藤子・F・不二雄、鈴木伸一、森安なおや、よこたとくお、石森章太郎、赤塚不二夫、山内ジョージ、水野英子などが住んでいた伝説的なアパート。「マンガ壮」というニックネームまで付けられた。

手塚作品に影響を受けて漫画家になった人たち

ほとんどが手塚治虫の「新宝島」を読んで感銘を受けている。

藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、ちばてつや、横山光輝、松本零士、永井豪、さいとう・たかを、水野英子、望月三起也、楳図かずお、中沢啓治、古谷三敏、辰巳ヨシヒロ、萩尾望都などである。

藤子不二雄は特につながりが深く、はじめ「手塚不二雄」のペンネームで漫画を投稿する。しかし余りにも露骨なため「手塚の足にも及ばない」という意味を込め「足塚不二雄」名義にして漫画を書いている。手塚はお金のない二人のために敷金の肩代わりと、漫画を描くための机を残している。手塚治虫のアシスタントもしている。

石ノ森章太郎も手塚治虫に影響を受け、中学時代にファンレターを出した所、さらに分厚い封筒の返事が届き、ますますファンになったという。その後手塚治虫のアシスタントを得て、手塚治虫の紹介で漫画家としてデビューしている。

赤塚不二夫、松本零士、寺沢武一も手塚治虫のアシスタントをしていたことがある。逆に、宮崎駿は漫画家を目指していたが、手塚治虫の亜流に見られることを嫌いアニメーターになっている。


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