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日本の偉人

日本の偉人を紹介するポータルサイトです。

日本には知られざる偉人が沢山います。その先人達が頑張ってくれたおかげで、今の私達がいます。なるべく多くの人に知ってもらえると嬉しいです。






鈴木貫太郎

大東亜戦争終結を引き受けた男

日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。第42代内閣総理大臣に就任し、陸軍の反対を押し切って大東亜戦争を終戦に導いた。

日清戦争

海軍大尉として、50トンのトイレもない小さな水雷艇の艇長として参加。魚雷艇で清国艦船に肉薄攻撃し、敵艦隊を沈めるという大戦果を上げます。この頃から「鬼貫」と呼ばれるようになりました。

日露戦争

日露戦争では、駆逐隊司令として戦った。持論だった高速近距離射法を実現するために猛訓練を行い、部下から鬼の貫太郎、鬼の艇長、鬼貫と呼ばれたが、自らの駆逐隊で敵旗艦スワロフに魚雷を命中させるなどの大戦果を挙げ、日本海海戦の大勝利に貢献した。

海軍大将から軍令部長

その後ドイツに駐在し、1914年に海軍次官となり、シーメンス事件の事後処理を行う。1923年に海軍大将となり、1924年に連合艦隊司令長官に、翌年海軍軍令部長に就任。

侍従長

1929年に昭和天皇と貞明皇后の希望で、予備役となり侍従長に就任します。これは海軍軍令部長から30ランクぐらい下がる降格人事です。侍従長とは、天皇陛下に側近奉仕する文官のことです。
軍人である鈴木貫太郎が侍従長を断らなかったのは「格下になるのが嫌で天皇に仕える名誉ある職を断った」と人々に思われたくなかったからといわれる。昭和天皇の信任が厚かった一方で、国家主義者・青年将校たちからは「君側の奸」と見なされ命を狙われることになった。

二・二六事件

1936年2月26日に二・二六事件が発生した。
事件前夜に鈴木はたか夫人と共に駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの招きで夕食会に出席した後、11時過ぎに麹町三番町の侍従長官邸に帰宅した。

午前5時。鈴木の官邸に、安藤輝三大尉が指揮する兵204名が来襲した。鈴木は寝床を跳ね起きて、そこへ行って見た。鉄砲を持った七、八人の兵隊と一人の指揮者が入って来た。「君らは何だ」というと、「済みませんけれども、閣下の生命を頂戴に参りました」という。鈴太は「よしッ、それなら少し待て」といって、引返して奥へ入った。奥であちこち探したが武器が見つからなかったので、ぐすぐすしていて、あいつ卑怯にも裏から逃げたと思われては、一生の名折れだ。「よしッ」と素手で出て来て、「君らの見る通り、オレは何も手に持って居らん。やるならやれ!」といって、立ったまま両手を拡げた。すると中隊長は中尉ぐらいだったが、「最敬札!」と号令して兵隊たちに鈴木に敬礼させた。そして続いて、「射て」と号令した。鈴木は、左脚付根に3発、左胸、左頭部に各1発の銃弾を撃ち込まれ、その場で昏倒した。
血の海になった八畳間に現れた安藤に対し、下士官の一人が「中隊長殿、とどめを」と促した。安藤が軍刀を抜くと、部屋の隅でキチンと座ってご主人の最後を見届けていた妻のたかが「おまちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と気丈に言い放った。
安藤はうなずいて軍刀を収めると、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃」と号令した。そしてたかの前に進み、「まことにお気の毒なことをいたしました。われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語り、女中にも自分は後に自決をする意を述べた後、兵士を引き連れて官邸を引き上げた。
反乱部隊が去った後、鈴木は自分で起き上がり「もう賊は逃げたかい」と尋ねた。鈴木の意識はまだはっきりしており、「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上に申し上げてください」と言った。声を出すたびに傷口から血が溢れ出ていた。鈴木は大量に出血しており、駆けつけた医師がその血で転んだという風説を生んだ。

その後病院に運んだが、出血多量で意識を喪失、心臓も停止した。直ちに甦生術が施され、枕元ではたかが必死の思いで呼びかけたところ、奇跡的に息を吹き返した。

安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人は西郷隆盛のような人だ。懐の深い大人物だ」と言い、後に座右の銘にするからと書を鈴木に希望し、鈴木もそれに応えて書を安藤に送っている。安藤が処刑された後に、鈴木は記者に「首魁のような立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と述べた。

総理就任

1945年4月(終戦4か月前)、枢密院議長に就任していた鈴木は、戦況悪化の責任をとり辞職した小磯國昭の後継を決める重臣会議に出席した。会議のメンバーは元総理の6人と内大臣の木戸幸一と鈴木貫太郎の8人だった。その会議で総理に推されるも驚いて「とんでもない話だ。お断りする」と答えた。しかし既に重臣の間では昭和天皇の信任が厚い鈴木の首相推薦について根回しが行われていた。こうして重臣会議では鈴木を後継首班にすることが決定された。

重臣会議の結論を聞いて天皇は鈴木を呼び、組閣の大命を下した。この時の遣り取りについては、侍立した侍従長の藤田尚徳の証言がある。「軍人が政治に出る のは国を滅ぼす基なり」と考え、あくまで辞退の言葉を繰り返す鈴木に対して、「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もうほかに人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と天皇は述べた。
鈴木は自分には政治的手腕はないと思っていたが、天皇に「頼む」とまで言われそれ以上固辞しなかった。
皇太后節子(貞明皇后)は天皇よりも30歳以上年上の鈴木に対し、「どうか陛下の親代わりになって」と語った。

就任当時から鈴木貫太郎は和平をするつもりだったと言われており、それをあらわすエピソードとして、6月8日の重臣会議後、「首相、皇族をはじめ、自分たちの間では和平より道はもうないという事に決まって居る」と内大臣が言ったという若槻元首相の証言が残っている。

非国会議員、江戸時代生まれという二つの点で総理大臣を務めた最後の人物となった。また満77歳2ヶ月での就任は2011年現在、日本の総理大臣の就任年齢では最高齢の記録である。

哀悼の意

4月12日、米国ルーズベルト前大統領死去。
鈴木貫太郎は、この報道に接すると、短波放送で次のメッセージを送った。

「私は深い哀悼の意をアメリカ国民に送るものであります」。

同じ頃、ナチス・ドイツのヒトラーも敗北寸前だったのだけれど、彼は対照的にルーズベルトを罵った。
アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンは、英国BBCで「ドイツ国民よ、東洋の騎士道を見よ」と題して声明を発表し、ニューヨークタイムズなどでも大きく報じられ、鈴木の行動は各国で賞賛された。

終戦工作

日本政府はソ連に米英との講和の仲介を働きかけていた。
ソ連とは日ソ中立条約を結んでいたことと、「日本軍の無条件降伏」を求めたポツダム宣言にソ連が署名していなかったことで、ソ連のスターリンに期待を寄せていた。

一方でスターリンは、3週間前のポツダム会談においてアメリカのトルーマン大統領に、日本から終戦の仲介依頼があったことを明かし、「日本人をぐっすり眠らせておくのが望ましい」ため「ソ連の斡旋に脈があると信じさせるのがよい」と提案しており、トルーマンもこれに同意していた。

7月27日にポツダム宣言発表があり、8月6日の広島への原爆投下、9日のソ連参戦と長崎への原爆投下、15日の終戦に至る間、鈴木は77歳の老体を押して不眠不休に近い形で終戦工作に精力を尽くした。

昭和天皇の希望は「軍や国民の混乱を最低限に抑える形で戦争を終らせたい」というものであり、鈴木は「天皇の名の下に起った戦争を衆目が納得する形で終らせるには、天皇本人の聖断を賜るよりほかない」と考えていた。

8月9日深夜から行われた天皇臨席での最高戦争指導会議(御前会議)では、ポツダム宣言受諾を巡り揉めていたが、昭和天皇の涙ながらの訴えで即時受諾案が決まった。

8月15日正午昭和天皇の朗読による終戦の詔勅がラジオで放送された。同日鈴木は天皇に辞表を提出し鈴木内閣は総辞職した。

終戦について

元海軍大将の山梨勝之進は戦後になって「(前略)終戦は鈴木将軍のあの貫禄があってこそ、押し切れたのです。あれがもし普通の文官の方があの立場にあったら、軍は収まらなかったろうと思う。「あんな臆病者の勇気のないものが戦をやめろと言っても、降参するものか」と言ってやめるものではない。いわゆる「鬼鈴木」と言われ、勇気と胆勇では、日本一看板づきの人がこうだからというので、その押しと貫禄で、陛下のご決定までいったと思われ、実に歴史始まっての第一人者であると思う。』と語っている。

不死身の男

鈴木は生涯に2度の暗殺未遂を経験しているが、幼い頃から何度も死にそうな目にあった。3歳のとき暴走してきた馬に蹴られかけたり、魚釣りをしていて川に落ちたり、海軍に入ってからは夜の航海中に海に落ちたりしたが、その度に奇跡的に助かった。

たか婦人

お茶の水女子大学附属幼稚園の教諭を経て、昭和天皇の幼少時代の教育係をしていた。昭和天皇は「たかのことは、母のように思っている」と、語ったと言う。

エピソード1

1943年(終戦2年前)頃、以前校長を務めた海軍兵学校を訪ね、当時校長だった井上成美に「井上君、兵学校の教育の効果が現れるのは二十年後だよ、二十年後!」と大声で言ったという。終始戦争反対派で、戦後の為の教育をしている井上を後押しするためだけに江の島まで行ったという。

エピソード2

徹底抗戦派の陸軍の阿南 惟幾大将は、終戦が決まった8月14日の御前会議終了後、紙に包んだ葉巻の束を手に「終戦についての議論が起こりまして以来、私は陸軍の意見を代表し強硬な意見ばかりいい、お助けしなければならないはずの総理に対し、いろいろご迷惑をかけてしまいました。ここに慎んでお詫びいたします。ですがこれも国と陛下を思ってのことで、他意はございませんことをご理解ください。この葉巻は前線から届いたものであります。私は嗜みませんので、閣下がお好きと聞き持参いたしました」と鈴木に挨拶にきた。

鈴木は「阿南さんのお気持ちは最初からわかっていました。それもこれも、みんな国を思う情熱から出てきたことです。しかし阿南さん、私はこの国と皇室の未来に対し、それほどの悲観はしておりません。わが国は復興し、皇室はきっと護持されます。陛下は常に神をお祭りしていますからね。日本はかならず再建に成功します」と告げた。
阿南は静かにうなずいて「私も、そう思います」と言って辞去した。

鈴木は迫水久常に「阿南君は暇乞いにきたのだね」とつぶやいた。その数時間後、阿南は割腹自決した。

阿南は鈴木の侍従長時代の侍従武官であり、そのときから鈴木の人柄に深く心酔していた。
阿南の思惑とは正反対の終戦の方に流れが進み始めた頃、陸士同期の安井藤治国務大臣に阿南は「どんな結論になっても自分は鈴木首相に最後まで事を共にする。どう考えても国を救うのはこの内閣と鈴木総理だと思う」と言ったという。


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